碁と真宗 袋田 晃(浄円寺 囲碁六段)

 碁を打ちながら、よく思う事ですが、仏教(特に真宗)の精神を学ぶには、囲碁が最適ではないかと思います。
 何故ならば、碁は昔から「人生の縮図」として言い慣わされていますし、なる程、それにふさわしいものを持っていると思います。真宗も、迷いのままで立派に生き抜いてゆく、人生そのままの生き方を導いて下さいます。
 さて、この「碁」と「真宗」、一見、全く関係のないように思うものが、「人生」という事でつながり、又、その人生観の根本が、同じ平等の命という所で、共通しているように思います。

 例えば、碁石一個の力は、将棋の駒のように、「王将」「飛車」「角」「金」等というような格づけはなく、皆同じです。この事は一人一人の命が、皆、平等(基本的人権の尊重)という事を、基本としているという事と同じです。又、将棋の駒は、取られたあと、相手の駒となって化けて出て来るという事がありますが、碁石には、そのような事はありませんし、置いた石を変える事も動かす事も出来ません。この事は、人生においても、蒔いた種(思い出)は、二度と変える事も消す事もでいないという、因果の法則の厳しさと共通しているという事です。

 さて、その碁を通して学んだ事というのは、碁石一個の力は同じでも、その石の打ち方によって、光って来る石、或いは腐って来る石が出て来るという事です。それは、石と石とは、回りの石と、お互いにつながりを持って働いているからです。このような事は、人の命は皆、平等ですが、人生が光り輝いて来たり、そうでなかったりする事が出て来るという事を、教えて下さいます。

 さらに、碁を打っていますと、打ち手の心が盤上に自然とあらわれて来ます。いつも地取りに走ってせこい人、石取りばかりに走る挑戦的な人、或いは厚く厚く打ちながら鈍感な人、あっち打ったり、こっち打ったりで一貫性がなく、わけの解らない人、或いは人のあと追いばかりをしている人など、色々な性格が出てきます。まさに、人生そのものです。それでいて、あれが悪い、これが悪いと、仲々決められないのですから、尚一層、おもしろい。それは、その人自身の価値観だからなのです。人生も、このようなものではないでしょうか。色んな性格の人がおりますが、どの人の性格が良くて、どの人の性格が悪いというような事は言えません。

 さて、碁はつながりのゲームであり、地取りのゲームでありますが、何でもかんでも、すぐ地取りに走ろうとする人は、大抵、四級ぐらいで止まってしまいます。そして碁の筋をよく見る人は、その壁も乗り越え、さらに全体の流れをよく見る人は初段・二段の壁を破って、どんどん進みます。まあ、会社で言えば平社員止まり、この人は課長止まり、この人は部長まで、この人は重役まで行くぞといったような、人格の見方とおなじでしょう。商売で言えば、すぐに金儲けに走りたがる人は、ついには客筋を逃がし、仲々大きくなれず潰れてしまうかも分からないという憂き目に会い易い。これに対して客筋を掴み、客の縁(つながり)と縁を結ぶ人は、どんどん大きくなっていきます。それは個の働きは小さいが、組織の力となると大きくなるようなもので、自然に出来上がる総合的なものは、はるかに大きいからであります。この故、下手の碁を見ていますと、石のつながりがバラバラで、一個一個の力が充分に働いていない事が解ります。いかに石と石とのつながり、或いは縁というものを大切にするとい事が大事であるかという事です。即ち碁石、一個一個の中に、いかにつながりの無限性を追求するかという事です。そして実はこの事が、一人一人の命の中に、無量寿・無量光の阿弥陀の命を感じ、目覚めて生活をするという真宗念仏のみ教えと、同じ発想ではないかという事です。

 さらにおもしろい事には、碁では、すぐ地取りに走りたがる人の方が、四級ぐらいまでは早く強くなるように見えますが、そこで止まってしまうという事です。商売でも、そのような人の方が、目の前で金算用が出来て早く溜まるように感ずるようなものです。一方、つながりを大切にしている人は、その地になる力を、つながりに変えているので、廻りから見ていると、「あいつ、大丈夫かな」と心配するぐらいでありますが、つながりとつながりとが結ばれた時には、地取りに走った人の何倍もの大きさとなって戻って来るのです。という事は、宗教の信心においても、自力の信心の方が、早く確かなものを掴んだように見えても、所詮、ちっぽけなもので、光と命の限り無い仏の働きを頂く他力の信心には及ばないものであります。平たくいえば、良い事をしようと心がけるよりも、仏様に頂いた命を、少しでも大切にしようと心がける方が、自然の理にかなった、すばらしい生き方であるという事でしょう。

 次に、碁においての悪手について少し話しましょう。悪手といっても、信仰においては自力の執心という事でしょうが、その悪手というものは、正しく応じられますと悪手は悪手のままですが、うまく受けられないと一番の強手になるという事があるという事です。

 人生にも、こういう事が、たくさんあるのでしょう。しかし、うまくいったとしても、所詮、悪手です。だまされた時のくやしさ、人をハメと時の痛快さ、色々とあるでしょうが、正直者が馬鹿を見るとか、要領のいいものが得をするとかは考えずに自分の未熟さを反省したいものであります。大抵、悪手というものは、そのときはうまくいっても、次にはやられるものですし、又、決して碁そのものが名局にはなりません。人生においても、やはり器を磨くという事が大切だという事でありましょう。だまされたくやしさを、盤上で体験しているうちは、まだまだ幸いです。その人の器は器なりに生活は出来ますが、小さい器は壊れ易いという事であります。

 この事を信仰の上で味わえば、自力の執心の中で治まらず、常に聴聞に聴聞を重ねて阿弥陀の働きを感じ、生活の中に、こんな私の上にも如来様はいつでも、どこでも、だれにでも、と働いて下さる無量の命を感じ、それを忘れないような生活、即ち、念仏申す人生を歩ませて頂きたいものです。

 さて、ここまで「碁と真宗」についての、一私見を述べて来ましたが、要するに碁においては、名局を残すためには、いかに石一個一個の中に、色んなつながりの無限性を感じながら打つ事が大切であるかという事であり、真宗で言えば、人生を最高に生きる為には、いかに一人一人の命の中に、阿弥陀の命の無限性を感じながら生活するという事でしょう。そして、そのような気持ちで打った碁が名局となるように、真宗では往生即成仏という事が約束されているといえるのではないでしょうか。

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