碁と真宗<続> 安心を語る


 前回に続けて真宗の安心についての一私見を、囲碁で学んだ事を応用して、味わって見たいと思います。

 まず私が真宗の安心を学ぶにおいて、疑問に思っていた事があります。それは、真宗学において、信心とか安心という言葉が頻繁に使われているのに、解りにくいということです。今まで妙好人と言われる方も沢山でておられるのに、どうして実質的に受けとめ難いかということです。勿論『大経』にも「難中之難、無過此難」とあって増上慢(自己過信)のものは受け取め難いとでております。しかし、間違いなく有るものならば、必ず現代の方々にも解りやすい表現ができて、伝えてゆく方法があってしかるべきだと思うのです。

 そこで今の若い学僧のなかには、自分がよく解らないものだから、そんなものは初めから無いのではなかろうかと疑い、安心について学ぶことを諦めてしまっている方がおられる。そして、他の社会問題の中からだけ真宗の安心を問い、特に蓮如上人以後の安心をかえって批判したり見さげて「汲めども尽きぬ幻の安心」等と皮肉っておられる方がおられるようです。まことに歎かわしいことです。 しかし、この状況はよくよく考えて見ると、碁を習う状況とも似ていると思います。昔から碁は「人生の縮図」と言い慣わせれているように、奥が深く広いために、仲々覚えにくく、早く強くなれない、おもしろくならない。だから碁を覚えることを諦めたり、かえって打つ方をさげすむようなものです。
 さて、これらの考え方は、科学文明に慣らされ、即実証的な考え方の欠点が、真宗の安心や碁というものを解りにくいものとしているのではないでしょうか。即ち、合理的に割り切れないものや直ぐ実証出来ないもの、結論が出にくいものは納得できないということでしょう。

 しかし、この世の中には、合理的には割り切れず、結論の出しようのないものの方が、はるかに多く、大きな力をもっているのではないでしょうか。私たちの行動からして、合理的にものを考えて行っているのではなく、その実、好き嫌いで行っているものが多い。一人で生きているようでも、頼まんのに願わんのに、届いて働いてくださる親心の方が強い。

 これらのことを踏まえた上で、阿弥陀仏が私に願いをかけて働いてくださるといわれる安心の心を、碁の「大局観」という全体の流れの中で「次の一手」を考えるという心から味わって見たいと思います。

 さて、阿弥陀仏が私にかけてくださる願いといえば、いうまでもなく「私を仏にする」という第十八願であります。碁でいえば、名局といわれる良い碁を打つということでしょう。そこで、前回には、良い碁を打つためには石一個一個の中に、色んなつながりの無限性を感じながら打つということが大切であり、真宗では一人一人の命の中に、いつでも、どこでも、誰にでもと働いてくださる阿弥陀の命の無限性を感じながら、生活することが大事であると話しました。

 しかし、「言うはやすく、行うは難し」です。実際上になりますと、目先のことが優先され思われて、感情に騙され惑わされ、仲々、すべてのつながりが解って始められるというものではありません。信仰生活でいえば、「分かっちゃいるけどやめられない」というものが出てくるのでしょう。或いは、自力の執心ということでしょう。碁盤上では、地囲いに執らわれたり、定石(或状況下で最善手とされている一塊の手順)に執らわれたり、相手の打ち方に執らわれたりということで、仲々、全体を見つめて打つということは難しいようです。

 実は、このことが真宗の安心を学んでゆくのに似ているということです。教えられた先生の心や、自分の現実に執らわれ、或いは、お聖教や聖人の生き方に執らわれ、さらには、自分の頂いた安心に執らわれたりで、仲々、定まらないわけであります。特に、たちが悪いのは、自分が安心を頂いたからといって、必ず自分の頂いた頂き方、或いは通ってきた道でないとだめなように思ったり、自分が頂けないからといって、或る上人の生活態度にならないと頂けないように思ってしまうことです。

 このような思いが、一番害をなし、他人の心を傷つけてゆくということです。どんな正しいものでも掴めば、他人をやっつける恐ろしい武器になる、害になるということです。阿弥陀仏の本願には、相手をやっつけたり、傷つけるというようなことは絶対に無いのですから、いつの間にか自分がその中に入っているということです。いかに、自力の執心から離れるということが難しいかということです。

 最近、蓮如上人の信心と親鸞聖人の信心が違うのではないかと問われる方も、ここの問題に執らわれているのでしょう。両上人の生き方の違いに目をつけて、「弥陀の本願を仰ぐ」という絶対一つのものを見忘れているのではないでしょうか。すなわち、「さらに親鸞めづらしき法をもひろめず」とか、弥陀・釈迦・七祖という次第相承の流れ、或いは、「善信(親鸞)が信心も聖人(法然)のご信心も一つなり」等と言い切られたもののお心です。弥陀の本願は一つであっても、その心を写してゆく私たちの個性の器には違いがあるわけです。「智慧各別なるゆえに、信また各別なり」です。安易に、親鸞聖人の生き方だけに執われず、親鸞聖人が私たちに教え、残してくだされたものをしっかりと学んでいきたいものです。そして最後には、「蓮如上人の信心も、親鸞聖人の信心も、ただ一つなり」といい切れる弥陀の本願と仰いでゆきたいものです。

 さて説を戻しまして、碁を打っておりますと、有難いことに自力の執心は出て来ますが、その結果を一盤一盤、盤上で体験できるということです。我執を貫くとどうなるか、色々と盤上で痛い目に会いながら、考え方の柔軟さを学び、大局的にものの流れを考えたり、進めてゆく心を学んでゆくことができるということです。そしてこの学んだものことが弥陀の本願の三十三番目「触光柔軟の願」と相通ずるのではないかと思うのです。すなわち、「この光に会うものは、必ず心も身体も柔らかくなる」ということです。頂いて心も身体もカチカチになっているようならば、弥陀の本願に会ったのでも安心を頂いたものでも無いということでしょう。

 ところでここに、大事なことがあります。それは、私たちの心というものは、善悪好穢、或いは正邪というものを決めたがる、或いは決めつけたがるということです。そしてその方が、いかに心が楽かということです。白黒、ハッキリ決めないまんま頭の中に留めるということは、仲々、至難の業のようです。しかし、親鸞聖人も「善悪のふたつ、総じてもって存知せざるなり。」とおっしゃられているように、真実というものは、決して凡人のすぐ決めつけられたり、解ったりするようなものではないようです。この決めつけないまんま、解らないまんま、正確に頂くということが、なんでもかんでもみな決めつけたがる現代人には、安心が解りにくい、頂きにくいという原因になっているのでしょう。

 そこで碁をやっていますと、盤上で我と我がぶっつかり合い、決めつけたらどうなるか、決めつけたその時から、相手にこちらの心を読まれて、かえって利用されたり、やられたりするということです。そして痛い目に会い、辛い思いを重ねながら、この体験を繰りかえすことによって、決めつけたがる我執が、だんだんと耕され慣らされて、いつの間にか大きく盤面の流れに応じて打てる大局観というものが育てられ、身についてくるということです。即ち善悪好穢、或いは正邪というものを決めつけないまんま、受けとめることのできる柔軟心を頂くということでしょう。普通は聴聞に聴聞を重ねて、やっと自力の執心から離れてゆくのでしょうが、碁をやっていると盤上で体得できるということです。

 それじゃいつまでたっても決めつけることがないかといえば、そうじゃなくて、ただ一点、今、ここでという「次の一手」だけは具体的になるということです。弥陀の本願は「いつでも、どこでも、誰にでも」と届いて働いておりますが、具体的に私の命のなかに顕われるのは「今、ここで」という一点であるということです。阿弥陀仏の本願は「十方普流行」といって、川の流れのごとく私の命のなかに、お浄土より流れ届いてくださる南無阿弥陀仏より他に無いということです。私の口の上に「私を仏にする」という目的の仏の仕事が味わえるということは、うれしいではないですか。さらに、仏のお慈悲は、川の流れのごとくですから、つかまえる必要も追いかける必要もないわけです。たとえ、つかまえ損なっても、次の流れが「いつでも、どこでも、誰にでも」と届いて働いてくださるわけです。

 この阿弥陀仏の心が、即ち「安心」となって私たちの日常生活をうるおし、他の社会問題に取りくんだ時にも、力強い勇気と力があたえられてくるのでしょう。安心の頂かれた姿は、第三十三願に顕われているように、柔らかく柔らかく頂けるものだということを頂きまして、一私見で綴った「碁と真宗」の続編を締め括りたいと思います。

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