光に遇う 本願寺布教使  三崎霊証

 今日は「光に遇う」ということを味わってみたいと思います。
 私たちが仏様の教えに遇うことを、「光に遇う」と喜ばれたのが親鸞聖人でございます。ですから、仏様のことを「尽十方無碍光如来」と拝まれました。これは、「あらゆるところに障りなくはたらく仏様」と頂いたことでございます。

 そこで光ということを考えてみますと、光というのは闇があるから光が必要です。闇がなかったら光はいりません。じゃ、闇とは何か。今そのことを親鸞聖人は、 『「凡夫」といふは、無明煩悩我らが身にみちみちて』とおっしゃいましたが、凡夫といわれる私は無明であります。無明とは明かりがないと書きますから闇であります。実は仏様の世界から私を見ると、まさに真っ暗闇の心をもって真っ暗闇の中を生きている、その姿が私の姿であります。真っ暗ですから先が見えません。私たちは光がないと先を見通すことも自分自身の姿さえも気づかずに生きています。そんな私が仏様のみ教えにあって初めて、私の姿もそして私のいのちの行方もはっきりしてくるのでございます。

 以前私はあるお寺さんにご縁を頂きましたとき、衣もお袈裟も鞄に入れまして、背広姿のままでそこに寄せていただきました。「御免下さい」と玄関へ行きましたら、あわてて住職さんが出て来られました。ところが、私の顔を見るなり、「ああ、今日は忙しいから帰ってくれ」といわれ、訪問販売の人と間違えられたことがございます。背広姿の格好で、しかも初めてのところですから、間違ったことだろうと思います。

 考えてみますと、私たちは外見だけでものを判断し、ものを見ています。姿や形、また、生まれや学歴や地位で相手を見てしまうような、そんな間違ったものの見方をしているのが私の姿ではないでしょうか。そして自分の都合で、あいつはダメ、こいつは良いと判断して、自己中心的なものの見方で生きていきがちであります。そんなところに対立が起こり、争いが起こってまいります。

 宇宙飛行士の毛利さんは、宇宙から帰ってきまして、地上に着いた第一声が「地球は一つ国境は見えません」とおっしゃいました。すばらしい言葉をおっしゃいましたが、まさにそうです。あの宇宙の広い世界から地球を見たら皆一つなんです。今、阿弥陀様という仏様の世界から私を見たら、皆一つのいのちなんです。皆、いのちがつながって国境もそして他人もありません。親鸞聖人は、
 『一切の有情はみなもって世々生々の父母兄弟なり』
と教えて下さいましたが、皆仏の子であり、皆兄弟なんだと。だから広い広いその世界で、心開いて言葉を通いあって生きて下さい。小さな殻に閉じこもらずにどうぞ広い阿弥陀様の世界に出てきて下さい。そう教えて下さるのが南無阿弥陀仏のお念仏でございます。

 今、そのお念仏に遇うことを親鸞は光に遇うと教えて下さいました。つまり、教えによって私の姿が知らされ、私の生きる道を教えて頂き、この人生の行方を教えて下さるのがお念仏であったと頂きました。それを光というふうにたとえて下さって、光に遇うと明るい世界に私が出していただく、同時に光によって影が出てきますから、私の暗さ私の愚かさに気づいてくる。それが光のはたらきであります。

 また、光はものをはぐくみ、育てるというはたらきがあります。これを「調熟の光明」といいます。「チョウ」は調える、「ジュク」は熟する。私の心を調え熟させて下さるのが、仏様のみ教えでもございます。仏様の教えによって育てられ、そして私の心が調えられてくる。何が大事であり何が間違っているかということが知らされ、私の心が熟してまいります。熟すとは味が出てくるということであろうと思います。つまり、おかげさま・ありがとう・勿体ないという心が出てくる。そして、下がらん頭が下がらしていただき、合わす筈のない手が合わさり、出てくる筈のない口から南無阿弥陀仏というお念仏が出てまいります。それが、仏様の光に遇うことでございます。

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